1.鮮烈なる、赤(2)


 
――エリカ?

 それが自分の名だと聞かされたとき、思わず飲んでいた珈琲を吹き出しそうになった。
 エリカ。花の名である。それ以前に、響きだけでも可愛らしい。
 よりによって、何故自分の名が、エリカ。
 有り得ない、これは違う。
 本能がそう告げている。

 ――エリカ。貴方の名は、エリカなの。そう、本当の自分を取り戻すまでは、ね。

 そう言って笑ったのは、あの錬金術師ではない。いっそのこと、これがあの錬金術師の言葉であれば、厭味の一つ二つ、否、十や二十を叩きつけ、あげく珈琲をその無表情な顔にぶちまけてやるものを。
「あー、ムカつく」
 頭はやられていないはずだが、語彙が減ったかもしれない。怒りを表す言葉は、それしか出てこない。
 苛立ちの原因は、名前だけではない。暫くの間使用するだけだと言って付けられたコードネームもさることながら、
「なんだよ、これ……」

 鏡に映る己の姿には、溜息しか出てこない。
 そこに居るのは、金髪の少女だった。保養地の真昼の光にも似た、鮮やかなナチュラルブロンド。緩やかにうねるそれは、金細工の如く繊細で、美しい。綺麗に作ってあげたのだとあの錬金術師が言っていた通り、顔も頗る美しかった。どこの女優か貴婦人か、と思われるほどの美貌を備えた、十五、六歳の少女。これは、すれ違う男が皆、涎も鼻血も垂らすであろうと品のないことを考えてしまう。だが。
 目がいけない。
 アーモンド形の大きな目、くっきりとした二重瞼のその中に輝く二粒の宝石は、サファイアでもエメラルドでもなく、ルビーだった。赤。血の色をした瞳である。鏡の中の自身と対面したときは、思わず「ぎゃっ」と悲鳴を上げたくらいだ。あの錬金術師、いったい何を考えてこのような目を埋め込んだのか。義眼とはいえ、他にやりようはなかったのかと考えてしまう。
「趣味、とか言ったらボコるぜ、あのクソアマ!」
 鏡に向かい、悪態をつく。
 それでも、あの取り澄ました――と、”エリカ”は思っている――錬金術師・レイチェル・クロフォードは、何の反応も示さぬだろう。研究馬鹿というか、仕事熱心と言おうか、錬金術のことしか頭にない可愛げのない女は、

 ――そう?

 と首も傾げずに言うだけだ。僅かに睫毛を揺らすくらいで。

 事故で重傷を負ったエリカが、身体の復元のためレイチェルの元に運び込まれたのが一年ほど前。気難しいと評判だったレイチェルは、断りもせずにエリカの復元に尽力してくれた。そのことには感謝している。だが、よりによってこんな姿に変えられるとは。
 事故前の記憶がないことが、幸いだった。
 事故の衝撃で、エリカは脳以外の全てを失った。記憶もなにもかも。そもそも、エリカをそのような目に合わせた”事故”、それは事故ではないと、連邦捜査局の女は言った。事故自体故意に起こされたもので、それは取りも直さずエリカを殺害するためであった、と。件の事故の際、エリカ以外は全て犠牲となった。上司も部下も同僚も後輩も、全て、灰となったという。辛うじてエリカだけが助けられた。それが、どういうことか。

 ――つまり、あなたが生きていることが知れれば、また貴方が狙われるというわけです。

 エリカが”殺された”理由。それは、”生前”に行っていた研究のせいだというが、残念ながら何一つ思い出せない。自分の名すらも判らないのだ。それは、仕方がないだろう。

 誰が自分を殺したのか。
 何のために。

 ひと固まりの灰となった同僚たちの写真を見せられ、エリカは考えた。彼らの仇を取る、などと綺麗事を言うつもりはない。ただ、見つけたいのだ。
 自分自身を。
 自分が殺されねばならない理由を。
 そして。

「ぜってぇ見つけ出す。オレを、殺した奴を」

 鏡に映る赤目の少女。彼女に向かい、エリカは誓った。
 見つけたら、殴らねば気が済まない。当然、レイチェルよりも先だ。犯人を殴った後に、レイチェルを殴る。
 機械で作られた腕は、人を一瞬で肉塊に変えてしまうことなど、この時点でエリカは知る由もない。



 船、というのは一等船室に限る。三等船室は貨物室と何ら変わりはないからだ。金も財産も持たぬ、明日の食糧にも事欠く輩が、希望という儚いものに縋って乗り込む処でもある。そんなところに入ったが最後、此方にも不運のおすそわけがやって来てしまう。
 牛馬の声と鶏の羽ばたきが絶え間なく響く中、垢に塗れた男たちの鼾も絶えることがない。
 そんな情景を知っている自分はいったいどんな暮らしをしてきたのだろうと思いつつ、エリカは一等船室――しかもロイヤルスイートだ――の、広いベッドの中で考える。
 身に纏うのは正絹の夜着、いわゆるネグリジェというものであった。これまたふんだんにレースがあしらわれており、如何にも良家の令嬢が身につけるようなものである。どうやら連邦の連中とあの錬金術師は、自分を何処かの令嬢に仕立て上げたいらしい。錬金術師は、エリカを飾り立てることを楽しんでいるようなきらいもある。彼女はエリカを一人の人間としては見ていない、どちらかというと。

「オレは着せ替え人形か、ってーの」

 隣室のクローゼットを覗けばわかる。判りすぎるほど判り過ぎてしまう。往年のアストランで大人気のバーディードールのドレスに見立てた服が、それに合わせたアクセサリーが、ぎっしり詰め込まれているのだ。
 けれども、そんな服を着るのを楽しんでしまう自分が居ることも事実だった。
 かつての自分は男子だったと確信しているが、どういった性癖の持ち主だったのか。過去を辿るのが怖くなってきた。
 研究者にして、女装趣味。有り得そうで嫌だ。
 もしかしたら、”生前”の自分は、あの錬金術師レイチェル・クロフォードとも馴染みだったのではなかろうか、などと恐ろしい妄想に取りつかれる。
 思わず見かけ通りの少女のように、己の肩を抱き締めた。そんなときである。廊下側の扉が叩かれたのは。

「メッセージが届いております」

 流暢な公用語が聞こえる。落ち着いた男性の声だ。
 ボーイを通してメッセージを伝えるなど、大時代的な方法だ。部屋には電話もあるというのに、と、エリカは渋々立ち上がる。磨き上げられたドアノブに手を掛けようとして、ふと、覗き穴から廊下を窺った。そこには人影が一つ。金髪の若いボーイが佇んでいた。この客船の制服を纏い、ピシリとドアの前に足を揃えて立つ姿は、何処にも怪しさはない。ふむ、と頷き、エリカは扉を開けた。
「誰から?」
 と、問うまでもない。
 ボーイはにこりと天使の如き微笑みを溢し、徐に銃口を向けてきた。
「は?」
 何が起きたのか、判らなかった。
 銃口が火を吹くのと、轟音が響くのと、自分の間抜けた「は?」の声が漏れるのと。
 どれが一番早かったのだろう。
 至近距離から放たれた凶弾は、過たずエリカの急所を打ち抜いた。
 はず、だった。

「おもちゃ、か?」

 痛みはない。血も出ない。エリカは己の胸をさすった。何処もどうなっていない。ただ、純白のネグリジェに似つかわしくない、見事な焦げ痕がついている。服の破れ目からは、錬金術師の趣味の結晶たる、ふわりと柔らかな微乳が、否、美乳が尖端も露わに零れ出ていた。

「う……」
「ううっ」

 エリカとボーイは、同時に声を上げる。おのおの、思う処は異なるに違いない。
 ボーイは更に銃をこちらに向け
「バケモノ」
 悲鳴じみた声をあげながら、銃を連射したのだ。
「――って、充分失礼じゃねぇか、この野郎」
 ひとの胸を眺めまわしておきながら――エリカはむんずと銃口を掴んだ。恐れた男が更に引き金を引く。重苦しい火薬の爆ぜる音と共に、鉛弾がエリカの掌を貫通する、こともなく。彼女の柔らかな掌に行き場を押さえこまれ、
「おうっ」
 暴発した。
 金属の破片が壁という壁に突き刺さり、火薬の匂いが周囲に充満する。それに混じる、血の匂い。エリカの前で、ボーイはゆっくりと床に崩れ落ちた。彼女の手の中に、拳銃の残骸と千切れた右手首を残して。



 説明をして欲しい、と言われても、訊きたいのは此方の方である。
 とにかく船長室へ、と、チーフパーサーに引きずられるようにしてその部屋に押し込められたエリカは、リビングに当たるのだろう、先程までいたロイヤルスイートのそれに勝るとも劣らぬほど豪奢な設えの部屋に通された。そこに置かれた重厚なソファにぽてりと腰を下ろし、差向いに座った壮年の美丈夫を見つめる。彼がこの船の船長であり、支配者でもあるエドワード・スミスだという。
「お名前は、ミス・エリカ……?」
 スミスが首を傾げる。
 姓を問われても、コードネームにそんなものはない。エリカは肩を竦めた。スミスも真似をしたくなったのか、小さく肩をすくめる。
「では、ミス・エリカ。何があったのか、説明して戴きましょうか」
 スミスは卓上のパイプを手に取り、そこに火を付けた。長期戦に持ち込むつもりか。そうくるのなら、と。エリカはソファに背を預ける。
「酒。とはいわねぇが、飲み物の一杯くらい出してもいいんじゃねぇのか? 船長さん」
「スミス。いや、エドワードで宜しいですよ、ミス・エリカ」
「ああ、そう。ミスタ・エドワード。ご自分だけ嗜好品を片手にしてるってな、ずるくないか?」
「質問に答えて戴けば、お好きなものをお持ちいたしますよ、ミス・エリカ。華国の松の香りの酒から、ゴールの年代物の葡萄酒まで。いや、新大陸の方は、珈琲をお好みかな」
 埒が明かない。エリカは大仰に溜息をついた。
 大方、スミスの頭の中には、一つの筋書きが出来上がっているのだろう。ふと目にした美しい令嬢、彼女の元に忍んで行った若い船員。彼の一方的な愛を拒んだ令嬢が、不埒者に制裁を加えたのだと。もしくは、暴力で脅そうとした船員が、逆に返り討ちにあった。そんな風に考えているに違いない。
 他のアテンダントが駆け付けたときの様子を見れば、誰もがそう思うはずだ。
 ネグリジェを裂かれた令嬢が拳銃を手に、床に転がった船員を呆然と見つめていたのならば。
「渡航地は、エルミニアとなっていらっしゃいますが、観光ですかな」
 スミスは話題を変えた。
 別方向から攻めるつもりだ。
「ああ」
 エリカは、気の抜けた返事をする。
 観光、と素直に答えればよかったが。
「ちょっと人を探している」
 うっかり本音を口にしてしまった。
「ほう? 人探し」
 スミスの目が、きらりと光る。また、だ。また、彼は余計なことを考えたのだろう。
 良家の娘が身分違いの恋に身を焦がした結果、相手の男は故郷を追われ、別天地へと逃げ去った。それが、混沌の大地エルミニア。エリカは彼を追って、家出をしてきたのだと。
「若い娘さんですからねえ」
 父上が心配されていらっしゃいますよ、と、スミスの目は言っている。彼はおそらく――存在するのであれば――自身の娘をエリカに重ねているのだろう。が、生憎エリカに父の記憶はない。あったのだろうが、吹っ飛んだ。
「あんた、オレの殴りたいリストの三番目に浮上したよ」
「おや、それは光栄ですな」
 スミスは相手にしない。
「今回のことは、内密に処理させては戴きます。が、ご両親にはお伝えした方が宜しいでしょうね、ミス・エリカ。それとも、現在の居場所が知られては、宜しくない?」
 スミスは痴情の縺れで片付けたいらしい。エリカはふんぞり返った身体を、勢いよく起こした。
「両親もいねぇし! 大体、今回の件はいきなり向こうが襲って来たんだ。メッセージを持ってきたとかなんとかって」
「ほぉ、いきなり襲いかかった、と」
「だから。撃って来たんだよ、拳銃でこう、パンパンって」
 沈黙が訪れた。
 スミスは、まじまじとエリカを見つめる。エリカも彼の青い瞳を見つめ返した。そこで初めて、スミスはエリカの双眸の異常に気付いたかのように驚きの表情を示し、それから、ごほんと一つ咳払いをする。が、やはり気になるらしくエリカの目をちらちらと見やりながら。
「件の船員が、ミス・エリカの命を脅かそうとした、と」
「いや、脅かしたんだってば」
 言葉はきちんと使おう。エリカは視線で訴える。
 そして再びの沈黙。スミスは、ぷかりと煙を吐き出した。
「お心当りは?」
「ねぇよ、そんなもん」
 一言ごとに、沈黙が介される。そのたびに、スミスは煙と共に溜息を吐きだした。
「私は、今回の航海を以て、めでたく定年退職となるのです」
「ほう、そうか。おめでとう」
「船員時代より約四十年、大きな事故もなく事件もなく、無事に過ごしてまいりました」
 だから、有終の美を飾るために、この事件ももみ消そうというのか。スミスの考えはまるわかりである。だからこそ、やたらと処理が早かったのも頷けた。件のボーイを連れ去るのも、エリカを「どうぞこちらへ」と船長室に案内するのも。他の乗客が騒ぎに気づく前に、全てを片付けたかったのだろう。
 それもそうだ。
 この船は、アル=ヴィオンの誇る今世紀最大の海の城と讃えられ、かの国の女王までもが出航の際に臨席したという。ティタニア号なるこの船は、そのまま新大陸を経て大きく大洋を廻り、世界一周をする形で再び旧大陸へと舵を取った。スミスにしてみれば、華やかなる処女航海、その最後を飾る旧大陸へのヴィクトリーロードに

 ――あんた、よくもあたしを捨てたわね。
 ――とうちゃーん。

 昔馴染みの娼婦とその子供が飛び出してきたようなものだ。
 全く厄介な者が乗り込んでくれた、とばかりに此方を見るその目、エリカは繰り出したくなる拳を必死にこらえ、
「残念ながら、その記録は此処で途絶えることになるね、ミスタ・エドワード」
 ざまあみろとはさすがに言わなかったが、エリカは口の端を吊り上げた。機械人形でも、このような表情が出来るのは、悔しいがあの錬金術師のお陰である。礼を言う気は更々ないが、少しだけ有り難いとは思うことにした。
「まったく口の悪いお嬢さんだ」
 肩をすくめるスミス、そこに彼の秘書と思しき男性がそっと近づき、何やらメモを差し出した。スミスは「失礼」と右手を上げ、その手でメモを受け取る。中を見た彼は、
「ミス・エリカ、あなたの渡航許可証は……」
 そこに書かれていたことを読み上げようと思ったのだろう、だが、途中まで目を走らせて、言葉に詰まった様子だった。彼は一瞬、息を止め、それから秘書を、次にエリカを見、もう一度メモに視線を戻す。
「渡航許可証は……白紙?」
 あぅ、とエリカは額を抑えた。
 混ぜ物をしたインクで書かれた渡航許可証、時間の経過と共に文字が消えていく仕組みになっているのだ。一度提出すれば、その後は二度と見られることもない、船室の奥に放り込まれるかダストボックス行きか、もしくはティタニア号の親会社・白星社の地下倉庫に永遠に保管されるか――そのどれかだと、錬金術師は言っていた。
「嘘つきが」
 そもそも現在のエリカには、戸籍がない。戸籍がなければ、出国は出来ない。連邦はもとより、エリカを出国させないつもりでいる。出国どころか、監視下に置くつもりだったのだ。それを、その手をかいくぐって、ティタニア号にもぐりこむことが出来たのは、あの忌々しいレイチェル・クロフォードのお陰でもあるのだ。彼女の弟子、という存在するのかしないのか、判りもしない少女をでっち上げ、その名でこの船に乗り込んだ。

「何者ですか、ミス・エリカ」

 スミスの声が、強張る。先程までの気のいい親爺の声ではない。厳しい、支配者の声だ。彼の傍らで、秘書が上着の下に手を潜り込ませる。拳銃を取り出す気だろう。エリカは舌を打った。撃たれたところで、先程のように傷を負うことはない。が、ここで捕らえられては、本国に強制送還だ。そんなことになっては、今までの苦労が全て水の泡になる。
 いけすかない錬金術師に頭を下げたことを、まるきり無駄にはしたくない。
 ここは暴力に訴えてでも逃亡するしかない、エリカが密かに息を整え始めたときだった。

「お?」
「え?」
「はぅっ?」

 船体が、大きく揺れたのだ。
 現代の科学の粋を集めた、アル=ヴィオンの誇る豪華客船が、ちょっとやそっとの波で揺れるはずはない。フィン・スタビライザーも作動している。それなのに、いったい。
「暗礁か? 海賊か?」
 現代にも、海賊は存在する。けれども、彼らが襲うのは、こういった海外の巨大客船ではない。貨物船が主な獲物だ。
 考えるほどにつらつら出てくる現代知識に、エリカは若干戸惑っていた。自分の前身は何であったのだろう、と。
(オレは、いったい……?)
 眉を寄せるエリカ。
 船長室には緊急事態を告げる警報音が鳴り響く。なにごとだ、と鋭く叫ぶエドワード・スミス、彼に応えるオペレーターの甲高い声が、警報音に被さるように室内に木霊した。

「緊急事態発生、緊急事態発生、後部三等船室にて、爆発がありました」

 先程の揺れは、そのせいだったのだ。
 だが、爆発?
 不吉な予感に、エリカは思わず息を呑む。先程のボーイと言い、今回の爆発と言い。タイミングが良すぎる。アクシデントが続き過ぎる。これは、まるで。

「……」
「……」

 スミスと秘書、二人の視線がエリカに注がれる。彼らもまた、同じことを考えているに違いない。



 世界最大級アル=ヴィオン籍の豪華客船・ティタニア号が、エルミニア沖約十浬の地点で沈没したのは、その僅か数時間後であった。