1.鮮烈なる、赤(1)


 砂に塗れた上着を脱ぎ、髪に付着した砂塵も払う。ざらりとした感触には慣れたつもりだったが、さすがにこうも毎度のことになると、いい加減、辟易してくる。
星楽(せいら)は軍服の襟元を緩め、息をついた。更衣室の鏡に映る自分の姿は、心持を映し出してくれているのか。その表情は、なべて暗い。
 ここで溜息の一つでもついてしまえば、気分は一気に下降線だろう。
 星楽はロッカーの扉を閉めざま、そこに固めた拳を押し付けた。
「おやおや、ロッカー壊さないでくださいよ、作った人に申し訳ない」
 おどけた口調で話しかけてくるのは、下士官のクレア・グレイ。彼女はこれから退勤なのか、普段はきつく結いあげている自慢の金髪を肩にはらりと垂らし、タンクトップとTシャツを重ね着した非常にラフないでたちで佇んでいた。彼女は赤いフレームの眼鏡を、くい、と中指で押し上げ、
「このところご機嫌ななめですね、少佐。また、司令官から厭味言われたんですか?」
 にやりと笑う。
 星楽と上官たるジェイル・アレン大佐の不仲は、隊内で知らぬ者はいない。そこそこ名門出身、そこそこの戦績、そこそこの評価にも関わらず、司令官の地位にまで上り詰めた男が、この地へ赴任するに当たり付けられた副官が彼女――星楽である。とある将校の紹介、とだけ言われた星楽を、アレンが胡乱に思うのも当然だろう。しかも、星楽は。

 ――八洲(やしま)、か。

 アストランと八洲の混血、そのうえ容姿はどちらかと言えば八洲のそれに近い。栗色の髪に榛の瞳、顔立ちも東方人としてはエキゾティックではあるが、完全な西方のそれと比べると、微妙に違う。
 そこが更に、アレン大佐のお気に召さぬところであろう――とは、星楽自身も判っている。その証拠に、アレンは星楽を「橘少佐」ではなく、こう呼ぶのだ。


「ミス星楽」


 重厚な天板の上に肘をつき、両手の指を絡めた姿勢で、親愛なる上官は星楽を見上げていた。黒檀を思わせる艶やかな髪と、鮮やかな翠の瞳。アンバランスさが美しいと思う輩もいるかもしれない。けれども星楽は、アレン大佐の取り澄ました顔が嫌いだった。自分は特別、自分は君たちとは違う――あからさまな選民意識を前面に出している処が、そもそも気に食わない。
 そんな星楽の感情に気付いているのかいないのか、
「ミス星楽」
 彼は再び彼女を呼んだ。
「戻ったばかりですまないね、ああ、けれどすぐに話は済ませるよ」
 片手で髪をかきあげ、アレンはデスクの引き出しを開けた。流れるような仕草で。誰に対する演出なのか、と星楽は軽く肩を竦める。
「市街地の状況報告は、申し上げなくてよろしいのですか?」
 もともと、星楽が市街地に出向いたのは、そのためだ。映画館での爆弾テロ、その被害状況を調査しろ、そういわれて先程まで砂ぼこりの中を駆けまわっていたのである。報告のために司令官の執務室にやってきたというのに、
「ああ、それは、必要ない」
 そんな一言であっさり彼女の苦労は水泡に帰した。許されれば二、三発、否、気の済むまで心ゆくまで殴ってやりたい上官の横顔を睨みつけながら、行き場のない拳を震わせている星楽の前に
「この人物なのだが」
 人差し指と中指、アレンの二本の指に挟まれた薄い紙が突き出される。さすがに、ひったくることは出来ない。星楽はそれが机の上に置かれるのをおとなしく待った。
「君に、任せようと思う」
「は?」
 つい、と机の上を滑る一枚の紙。何処かの景色をプリントアウトしたものか。と思ったが、違う。そこには一人の人物が写っていた。元の原稿が悪いのか、それとも受信側に問題があるのか。画像は酷く荒い。写真の人物が金髪であること、黒い服を――それもやけにゴシックな――大時代的なドレスを纏っていること。また、履物はドレスに似合わぬ軍靴であることは、判った。但し、顔立ちは不明である。
「彼女の、捕獲ですか? 護衛ですか?」
 服装から、少女だと判断したのだが、それは間違ってはいなかったらしい。
 だが、アレンは「ちちち」と軽く指を振り、
「まず、捜索だ。最近、入国したらしい。その足取りを追い、接触したのちは、君に任せる」
 曖昧なことを言う。
 この少女がどのような人物か、本国からの賓客なのか、逃亡者か、それとも家出をした財閥・軍閥の令嬢か。それすら教えずに、ただ接触しろ、とは。
「君が知る必要はない、ミス星楽」
 それ以上の情報を、彼は寄こすつもりはないのだ。ここで話は終わりだとばかりに、彼女に退室を促す。ムッとしながらも敬礼ののち踵を返そうとした星楽に、
「この件は君に一任する、ミス星楽。くれぐれも内密に。健闘を祈る」
 そうだけ言って、彼はくるりと椅子を回転させた。
 どこまでも腹立たしい男だ。星楽は舌打ちを堪え、司令官室を飛び出した。



「まったく。なに、あれは」
 くしゃりと前髪を掻きあげ、星楽は休憩室のごみ箱を蹴りあげた。ブリキのそれは、派手な音を立てて床を転がる。談笑に興じていた下級兵士らが何事かとこちらに目を向けたが、そこに居たのが上級兵士――しかも、副司令官だと判ると、見て見ぬふりをした。あからさま過ぎるその態度に、さらに腹が立ったが。星楽は深く息をつき、奥のカウンターへと足を進める。
「おや、ご機嫌斜めだね」
 奥に佇む給仕の青年が、にやりと笑う。
「クレアみたいなこと言わないでちょうだい」
「へえ、グレイ少尉にも言われたんだ。でも、仕方ないでしょ。ここ、皺入ってる」
 青年は自身の眉間をつついた。星楽は左手の指先で目元を抑え、低く唸る。眉間の縦皺。二十四歳の乙女に、似つかわしくないものである。
「とりあえず、葡萄酒にしとく?」
 それとも、林檎酒かと尋ねつつ、彼は棚に置かれた瓶を二本掴む。物資に乏しいこの国で、年代物の葡萄酒が飲めるのは、ここならではだろう。今日も市民は、飢えと渇きに苦しみ、飛び交う銃弾のなかを食料を求めて這いずりまわっているはずだ。
「お願い。ああ、赤で」
 それが判っているのに、やめられない。基地の休憩室に設けられたショットバー、そこで星楽は日常的に昼夜を問わず、酒を嗜む。
「はいよ」
 との答えの後にカウンターにグラスが置かれ、そこに鮮血を思わせる液体が注がれる。漂う香りは、血とは似つかぬ甘い香り。芳醇なそれを楽しむ前に、星楽は色合いを確かめる。鳩の血の色、かなり上質な酒だ。差し出されたグラスを受け取り、微かに揺らせば、たゆたう液体から更に香りが立ち上る。
 硝子越しに表を望みながら、星楽はグラスを傾けた。
 広がる、アストラン軍の敷地。広大なそれには、指令本部から兵士の宿舎、食堂、娯楽施設まで完備されている。革命まではここは王家の離宮であった場所だというから、どれだけ当時の王室は豊かな生活を享受していたのかと思う。本宮のあった場所は、現在は革命政府が占拠しており、文字通りこの国の政治の中心どなっていた。

 革命により、エルミニアの王政が廃止されて十年。
 王族の処遇を巡り、革命軍の中の急進派と穏健派の対立が始まったのは、その一年後くらいであったか。加えて革命政府の圧政、粛清を嫌った反革命派の台頭も目立つようになり。内戦によって国は乱れ、疲弊し、それを見かねた諸国がそれぞれ出兵し始めたのが五年ほど前。他国が徐々に撤退していくなか、アストランだけはこの地に残った。旧大陸中央に咲く可憐な野薔薇、砂の女王と謳われた旧き歴史を持つ国に。
 砂に沈んだ国に、嘗ての中継貿易国として栄えたころの面影はない。
 旧き時代の建物は破壊され、反革命派の拠点となっている。彼らが事を起こさぬ限り、アストランは動かない。それが、現在の革命政府との約定だった。

 ゆえに、常に後手後手に回る。先に動いていれば、政府より出動要請が出ていれば、未然に防げた災禍も多くあった。
 いったい、この国の政府は内戦を終結させたいのか、それとも、更に国内を荒廃させたいのか。
 鬱屈した思いを解消するには、酒しかない。酒は、『避け』に繋がるな、などと、八洲の言葉になぞらえて星楽は苦笑した。
「だよねえ、少佐は、女だからね。男だったら、娼婦買いに行くって手もあるんだけどねぇ」
 くつくつと笑うバーテンダーの青年を睨みつけ、星楽は一気にグラスを空けた。青年は軽く口笛を吹く。
「惚れちゃうねぇ」
 軽口を叩くこの青年も、混血だった。軍属として本国から渡って来た彼は、アストランと旧大陸の東、キタイの血を持っていると聞いたことがある。東方の血が強く出たのか、彼の髪も瞳も、漆黒だった。彫りの浅い顔の中で、切れ長の一重の目が印象的である。首筋に龍のタトゥーを持つ青年は、名を、何と言ったか。通称でガイと呼ばれていたのは覚えているのだが。
「やだなぁ。それ聞いてどうすんの? 口説くの?」
 茶目っ気たっぷりに訊き返されると、それ以上尋ねる気にもなれない。
「けど、橘少佐になら、口説かれてもいいかな?」
「馬鹿ね」
 軽口を叩き合い、暫しの休息を経て、星楽は休憩室を出る。脳裏に描かれるのは、先程見せられた『写真』。ゴシックアンドロリータというのだろうか、この国には酷く不似合いな服装の少女。彼女が今もあの姿をしているというのであれば、簡単に見つけることが出来るだろう。
「わたしは、あんたの雑用係じゃないっての」
 ぱん、と左の拳を右掌に叩きつけ、星楽は靴音高く廊下を歩き去る。


 その後ろ姿を見つめていたバーテンダー、ガイは、彼女に向けて酷く軽薄な敬礼をする。
「ま、せいぜい頑張ってね。ミス星楽」



「そろそろ、教えて戴いても宜しいかと思いますけどね」
 司令官室において、かの人がこれほど謙ったことばを使うことは、あまりない。そこに客人が招かれているときか、もしくは、上官が視察に訪れたときか。今回は、そのどちらでもない。が、本国よりの使者が訪れたことは確かである。政府高官の秘書官を務めるアシュリー・ルーカス、今回の件をアレン大佐に依頼してきた人物だった。
 アレンは、赤毛に琥珀の瞳を持つ、魔女めいたこの美貌の男が正直苦手なのだ。こうして、差向いで話をするにしても、腹の前で組んだ手が震えるような気がしている。無論、そのようなことはおくびにも出さず、アレンは優秀なる司令官の仮面を付けたまま、ルーカスを見つめた。
「あなたが知る必要はないでしょう、アレン大佐」
 ルーカスは、先程のアレンと同様のことを言う。
「ともあれ、件の人物を発見次第、連絡を戴ければよいのです。生死は問いません」
 澱みなく要件を告げたルーカスであったが、
「ああ」
 と思いだしたように目を細め、
「あれは、殺しても死なないでしょうからね」
 くっ、と喉を鳴らす。それがまた更に、童話に出てくる魔女を思わせ、アレンは気づかれぬよう顔を顰めた。
「殺しても死なない?」
「まあ、比喩と思ってくだされば」
 ルーカスはあくまでもはぐらかすつもりらしい。が、アレンの苛立ちを感じ取ったか、口元を指先で隠すようにしつつ、また、くすりと笑う。これは魔女というよりも妖婦めいた笑いである。アレンはいい加減、自分が話している相手が男性なのか女性なのか判らなくなってきた。
「そうですね、あれのコードネームくらいは教えて差し上げましょうか」
 今日はいい天気ですね、そんな世間話を切り出したかのような軽い口調で、ルーカスは先の言葉を紡ぐ。
「エリカ」
「エリカ?」
「ええ、コードネームは、エリカ。あれの名と思って戴いても、構いませんよ」
 尤も――と言いながら、彼は内ポケットから一枚の写真を取り出す。そこにはやはり、ごてごてと飾りのついた黒いドレスを纏った少女が写っていた。星楽に見せたものよりもかなり画像は鮮明である。送信された映像の元原稿か。それを覗きこんだアレンは、
「これは?」
 思わずルーカスに問いを投げる。
 そこに写った少女、彼女は見事なナチュラルブロンドだった。一見して、旧大陸に最も多い容姿かと思いきや、その双眸はこの世ならぬ不可思議な色をしていたのである。
 赤。
 さすがのアレンも、赤い瞳の人間など生まれて初めて見た。

「鮮烈なる、赤」

 ルーカスの声を、遠雷のように思いながら聞く。
「別名、そうも呼んでおりますよ、我らは」